ぽて子のブログ

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「ひとり」と「寂しさ」について考える。【ぽて子のブログvol.6】

 

 

 

疲れすぎて何もしたくない休日、1日寝て過ごす以外のことをする体力はないけど、それはそれで時間を無駄に消費してしまったように感じてより一層虚無モードに突入する。

仕方ない。そういう性格だから。

世の中には、何もしないのがもったいなくて毎日予定を埋めるのが楽しいタイプの人もたくさんいるらしい。私もそれに憧れて予定を埋め尽くしてみたことがあるけど、3日もすれば毎日人といることに疲れてとにかく家でひとりで寝て過ごしたいと思った。その時に、私にはこういうライフスタイルは向いていないとわかった。

わかってはいるが、やっぱり友達が楽しそうに毎日SNSを更新しているのを見ると羨ましく思ってしまうのだ。SNSを見ていると、なんだか寂しい気持ちになった自分に気づいて、私は寂しさを埋めようとしていたけどこの方法ではうまくいかなかったな、と漠然と思った。

たまに友達と遊ぶと、やっぱり楽しい。また遊びたいと思うし、人と交流すると生きている実感がもてる。ただ、元々インドアで、ひとりで何時間でもインターネットの海で泳げる私は、毎日のように出かけていると心が安息を求めて一人の時間が欲しくなってしまう。そう思っていた。しかし、冒頭にも書いたように、いざひとりで1日寝て過ごすと途端に虚無感と孤独感に襲われるのもまた事実だった。

振り返ってみると、このような孤独感を覚えるようになったのは一人暮らしを始めてからだ。

実家にいたころは、休日はずっと部屋にこもって寝て過ごすのが常だったし、それにより充足感を得ていた。このような過ごし方こそが私にとって至福の休日であり、のんびりだらだらすることでリフレッシュすることができた。しかし、今の私はこの休日のルーティンで充足感を得るどころか虚無感を覚えているのだ。

元来私は非常にさみしがりである。さみしさの根源について考えたとき、今の私に不足しているのは日常の何気ないコミュニケーションだろう。朝起きたらおはようといい、行ってきますと言って家を出て、家に帰るとただいま、おかえりというやりとりをし、一緒に夜ご飯を食べながら今日あった出来事を話す。そんな家族間での当たり前なやり取りがないことがこんなにもさみしくて自分の精神衛生に影響があるとは思わなかった。

私が好きだったのはそうした人との些細なやりとりがある生活の中での一人の時間であって、それは決して独りの時間ではなかったのだ。

今私は、一人暮らしをしている。いくらLINEや電話をしてもぬぐえない孤独感がここにはあって、私のさみしさは些細かつ慢性的なものなので予定を詰めるという対処法では埋めることができない。そんな自分を自覚した時、私は非常に情けない気持ちになった。原因も理由もわかっているのに、このさみしさに自分の力で打ち勝つ方法がわからなかったのだ。寂しいという感情を持ってしまう自分が悪いのだと自己嫌悪する日もあった。

でも、いいじゃないか。

寂しいという感情を持つことは何もおかしくない。

私が2年間ひとりぼっちのさみしさと向き合って出た結論はこんなにもシンプルだった。

人はポリス的動物だ。家族というコミュニティと物理的な距離があることによって寂しさを感じるのは至って正常だろう。ならば、寂しいという感情と付き合っていけばいいじゃないか。無理に寂しさをなくそうとしても、そんなことは無理だ。それができるなら私がこんなに悩むことはなかっただろう。

この先、私は最低でもあと2年一人暮らし生活が続く。これからも孤独を感じることは絶対にある。それでも、自分が抱える寂しさに向き合うことができた私なら、今までよりもほんの少し心穏やかに過ごせる気がするのだ。